ミコトバ。 (22.11.2009)

ドイツでは総選挙が終わり、新政権も発足して(その仕事振りはともかくも)仕事を始め、経済も緩慢ではあるが不況を抜け出して、ゆっくりと成長を始めると、この年末時期、特にここで取り上げるニュースもなくなってきた。そこで今回は、誰でも知っているが、詳しい事を聞かれると答えに窮してしまうドイツの建国記念日について、ちょうど20周年を迎えるので、紹介してみたいと思います。

Tag der Deutschen Einheitとはドイツの建国記念日の事。文字通り訳せば、「統一の日」という意味になる。正確を期すドイツ人は、再統一の日と言う。(再)なのは、1871年にビスマルクが「戦国時代」のドイツを統一してドイツ帝国を建設したのが、最初のドイツ統一日とされている為。現在の統一日は10月3日で、日本同様に、建国記念の祭日となっているが、この日(1990年)に東ドイツが消滅して、法律上、統一ドイツが誕生した。しかし、この記念日の選定には、非難が絶えない。当時、世界中の人々がテレビの前で感動してベルリンの壁の崩壊を見たのは1989年の11月9日だった(日本では時差の関係ですでに11月10日)ので、「11月9日をドイツの統一記念日に!」という声が高かった。しかし当時のドイツ政府はこの感動の日ではなく、退屈なセレモニーの日、10月3日をドイツ統一日に選んだ。

その理由はわりと簡単で、当時、東ドイツの人々の多くは、11月9日を「東ドイツ敗北の日」として捉えていた。特に西ドイツに吸収されてしまう東ドイツ政府の高官は、統一後、監獄に行く可能性が高く、この統合を快く思っていなかった。(実際、監獄送りになった者は少なくなく、監獄送りを免れた者も、統一ドイツでは職業禁止をくらった。)その敗北(屈辱)の日を祭日にしては、東と西の本当の合併を妨げるという政治的、配慮があった。こうして1989年11月9日は、「壁崩壊の日」として、ドイツの歴史には残ったが、祭日にはならなかった。さて、その肝心な壁の崩壊だが、大抵の教科書には「東ヨーロッパで共産主義が崩壊を始め、これが東ドイツにも及んだ。」と簡素に書かれているだけで、具体的な経過については書かれていない。そこでドイツに留学して、クラスで堂々とドイツ統一の歴史を語れるように、ここでその経過について紹介してみたい。

ドイツ統一の隠れたヒーローはなんといってもハンガリーだ。ハンガリーでは80年代後半から共産党の独裁政権(ソビエトの傀儡政権)に対して非難が高まり、これがハンガリーの特色だが、共産党内部からもソビエト一辺倒の政策に対して反対を唱える声がきかれた。ハンガリー政府はソビエト軍のハンガリーからの撤収を求め、これが冗談ではない事を行動で示す為、オーストリアとの国境柵の撤去を開始(1989年6月)した。ちょうどハンガリーで休暇を過ごしていた東ドイツ国民がこれを見ると、「いざ鎌倉!」と、ハンガリーを経由して「西側」に脱出を始めた。運悪く他の国で休暇を過ごしていた東ドイツ国民は、大挙してプラハ(当時まだチェコスロバカイ)やワルシャワ(ポーランド)の西ドイツ領事館に逃げ込み、領事館の庭でキャンピング生活をして「政治亡命」を求める事態となった(ドイツ人はキャンピングが大好き。アジアで大きなリュックサックを背負って旅行している西欧人を見かけたらドイツ人だ。)。この事態を解決すべく西ドイツ政府は東ドイツ政府と交渉に入り、ようやく9月末になって東ドイツ政府は、領事館で亡命生活を送っている東ドイツ国民の西ドイツへの出国(Ausreise)許可した。この吉報を知らせるべく9月30日にプラハのドイツ領事館に到着した当時の西ドイツの外務大臣、ゲンシャー氏は歴史に残る演説をする事になる。

領事館のバルコニーで、亡命キャンピング生活を続けている東ドイツ国民に、"Wir sind zu Ihnen gekommen, um Ihnen mitzuteilen, dass heute Ihre Ausreise [moeglich geworden ist.]" 。(我々は諸君に今日、出国が可能なった事を告げるために来ました。)と演説をする筈だったのだが、Ausreiseと言った途端に喚起が起こり、演説を続けられず、[moeglich geworden ist.]は、「言えずじまいの三言葉(ミコトバ)。」として歴史に名を残した。その後、西ドイツ政府が電車やバスをチャーターして、東ドイツ国民の移動を開始したが、その数は膨れ上がる一方で、数週間でハンガリーからだけでも3万人もの東ドイツ国民が、西側に脱出した。中には西ドイツに向かって走行中の電車に文字通り「飛び乗る」東ドイツ国民が跡を絶たないため、電車のドアは西ドイツに着くまで封鎖された。

時を同じくして、1989年9月初頭からライプチッヒを拠点にして自由化を求める「月曜デモ」が行なわれるようになり、参加者は当初の数百人から7万人に膨れ上がった。東ドイツ政府(SED)はこのデモが東ドイツ全土に「飛び火」する事を恐れて、これをひた隠しにしたが、このデモをこっそり撮影したビデヲが西ドイツにに持ち出されてしまう。このビデヲが西ドイツのテレビで放映されると、デモが東ドイツ中に飛び火して、抑えが効かなくなってきた。40年間独裁政権を担ってきたSEDの党首ホーネッカー氏は、「東ドイツ建国40周年記念日」の祝典に出席すべく東ドイツにやってきたゴルバチョフ書記長に助け(軍隊によるデモの弾圧許可)を求めるが、書記長の回答は、"Wer zu spaet kommt, den bestraft das Leben."(遅れて来る者は、人生で損をする。)だっと言われている。。最後の切り札を失ったホーネッカー氏は、10月18日に党首から「健康状態」を理由に辞任する。

新党首に任命されたKrenz氏は、政府委員会(Politbuero)の首の挿げ替えで、国民をなだめて独裁政権を継続させようとするが、40年間弾圧された国民の怒りはそのくらいでは収まらず、民主化要求のデモはホーネッカー氏の辞任でさらに勢いがつく。そこで「新」政府委員会は国民への妥協が不可欠と判断、東ドイツ国民は9月3日からチェコスロバカイ(日本ではチェコスロバキア。)を経由の、西側への旅行の自由を認めた。これで国民の怒りが収まるかと思いきや、またも誤算、翌9月4日にはベルリンのアレキサンダー広場に100万人もの東ドイツ国民が集まっ、て民主化を要求する大デモが発生した。このデモは不思議な事に東ドイツのテレビで始めてライブ中継されたが、これは何も政府が許可したのではなく、東ドイツ政府の末期とあって報道機関への取締りが緩んでいたのが原因のようだ。

事ここに至れり、発足したばかりの政府委員会は11月7日に総辞職する。残った党幹部と(悪名高い)国家保安警察、通称、Stasiは打開策を討議するが、Reisefreiheit(旅行の自由化)を認めない限り、デモは収まらないという見解で一致、記者会見でこれを発表する事が決定されて会議が終了した。ところがここで手違いが起こる。この旅行の自由化は11月10日の午前4時、つまり誰もが寝ている丑三つ時にこっそり発表される筈だったのだが、1日早く11月9日の夕刻(19時)に記者会見が行なわれ、東ドイツ国民の旅行自由化が発表される。衝撃のニュースに対してどう対応したらわからず(信用してもいいのか、また新しいトリックかわからなかった。)シーンと静まり帰っている会場で、イタリア人記者が、「その自由化はいつから発効ですか。」と、これまた歴史に残る質問をする(*)。この記者会見の任務を委任されたSED幹部のSchabowski氏が書類をめくって発効時期の項目を探すのだが、その項目が見つからない。そこでこれまた歴史に残った有名な台詞、„Das tritt nach meiner Kenntnis… ist das sofort, unverzueglich.“(私の知る限り、直ちに、躊躇なく。)と回答、この言葉がベルリンの壁の崩壊の引き水になった。
          
西側政府及び報道機関はこの東ドイツ政府の「往生際のいい」態度に不信感を抱き、誰も信じようとしなかった。米国の記者などは会見が終わって席を離れたSchabowski氏を追って、「本当の本当に?」と聞いたほどだった。しかし、東ドイツ国民はこの知らせに狂喜して、国境に殺到した。ところが国境警備隊は(公表が翌日に予定されていた為)、旅行自由化なんて何も知らないし、当局からの指示も来ていないので、東ドイツ国民の西側への「旅行」を拒否する。しかし、テレビやラジオで知らせを聞いて国境に殺到する市民の数は増える一方で、暴動を恐れて必死に責任者に連絡を取ろうとするのだが、肝心の責任者はそんな事態になっているとは露知らず、オペラの公演に出かけており連絡が付かない。ここで現場の責任者が妙案を思いつく。出国希望者のパスに、「出国のみ」のスタンプを押して、邪魔者を西側にお払い箱にしようと考えた。こうして最初の東ドイツ市民が(夜中になってやっと)西ドイツに流れ込みだした。
  
何も知らない西ベルリン市民が居酒屋で酒を飲んでると、東ドイツ国民が居酒屋にやって来て「壁を越えて来た!」と、言うが誰も信じない。そこで東ドイツのパスを証拠に見せると、初めて壁が開いた事を西ドイツ市民は知った。その中にめざとい市民が居て、「このパスには出国、ausgewiesenとスタンプが押されており、もう入国できないんじゃ?」と、心配を口にすると、これまでは浮かれていた東ドイツ市民の顔色が変わった。不安になって国境に駆け戻ると、東側に再入国しようとした市民が入国を拒まれて長蛇の列が出来ており、事の重大性を始めて悟った。その中に一人の中年女性が居て、「(東側に)帰らなければならない。私が居ないと誰も家族の面倒を見る人がいない。」と泣きながら訴えるも、冷たい国境警備隊は一向に反応しない。その内、彼女の後ろに集まった群衆は、「彼女を入れてやれ!」と大合唱。彼女自身もかなり悲壮な表情で、"Ich muss zurueck! Ist das so schwer zu verstehen?"と、かっての宣伝大臣顔負けの大演説をやると、これまでは国境を越えようとした市民を冷酷に銃殺していた警備隊が国境を開いた。そしてこの瞬間、ベルリンの壁は崩壊した。
  
国境警備隊はパスにスタンプを押すのを辞め(意味がなくなった)、国境のゲートを開いたので、一気に大勢の市民が、中には車でやってきた市民がゲートを越えて堂々と、西側になだれ込んだ。このシーンはドイツで度々「再放送」されるので、是非、国境警備隊員の表情を見て欲しい。目の前で起きている事が信じられない表情で、国境を越えて西側になだれ込む東ドイツ国民を呆然と見ているその顔には、敗北感がはっきりと表れている。後にある雑誌のインタビューで聞かれた際、当時の警備隊員は、「一番肝心なときに、(俺たちを)見捨てた政府委員会の上層部に対して怒りを感じた。」と語っている。なにはともあれ、これでベルリンの壁は飾り以外の何物でもなくなった。壁が崩壊すると、これまではあんなに憎まれていた壁が大人気、まだ残っている壁はかなりの大金で売り買いされているから、歴史は皮肉だ。ちなみにEbayなどで販売されている「ベルリンの壁」は工事現場で拾ってきたコンクリートのかけらをペイントした偽物。もっとも偽物でも買った本人が(本物だと信じて)満足すれば、それはそれでもいいのかもしれないが、詐欺師にお金をくれてやるのは癪なので、「壁のお土産」は控えるようにしょう。
  
こうしてドイツ統一への道が開かれたものの、実際に統一に至るまでにはまだ幾つもの紆余曲折があった。今回のコラムはすっかり長くなってしまったので、その辺の話の紹介は、又、別の機会に。話は逸れますが、西側にやってきた東ドイツ市民には、西ドイツ政府の「寸志」として、100DMがもれなく配布された。この寸志は全部で18億DMも支払われた為、西ドイツ経済には思わぬ「棚から牡丹餅」。多くの東ドイツ市民はこれまで見たこともない奇妙な果物に大変な興味を示し、バナナを大量に買った。この為、ベルリンなど国境地域で果物を取り扱っていた果物商は、一生に一度の大儲けをした。
 
* ドイツ統一後、このイタリア人記者はドイツの週刊誌とのインタビューで、記者会見の数時間前に名前を名乗らない人物から電話があり、会見の内容について事前に知らせを受け、「その発効時間を聞け。」と「アドバイス」をもらった事を認めた。一体誰がこの電話をしたのがなのか、今日までわかていない。この予定外の記者会見について知っていた人物がごくわずかだったので、SED内部の高官が、何かの理由でこの電話をしたものと推測されている。


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こっそり撮影されたLeipzigのデモ。


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今は亡きベルリンの壁、レトロルック。



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