漁夫の利 (27.07.2009)

ここで何度か取り上げていたポルシェによるフォルクスワーゲン社(以下VWと略)買収劇が、思わぬクライマックスを迎えたので、ここで紹介してみたい。

まずはこれまでの「おさらい。」から。1980年代の後半からポルシェは車の売れゆきが悪化、ポルシェが人気の米国でドルの相場が崩れ始めると、儲けは激減、90年代の初頭には大赤字を抱えて、会社の運命は風前の灯。ここでWiedeking氏が社長に就任する。氏は会社のエンジニアと共にトヨタに「留学」、トヨタで車の製造過程を勉強すると、トヨタからコンサルタントを連れ帰り、ポルシェの会社再建に取り掛かる。その甲斐あって、数年後にはポルシェは黒字を出すばかりか、最も効率よく車を製造する会社に変身した。どのくらい効率がいい会社になったか、株価の変動を見ればよくわかる。氏の就任当時(1993年)はたったの3ユーロだった株価が、4年後の2007年には最高185ユーロへと60倍にもなった。同時に会社の資産も3億ユーロから250億ユーロへと80倍になる。このふんだんな資金が、皮肉な事にポルシェの不幸の始まりになる。

この溢れるばかりの資金でポルシェはVWの買収に出た。他に簡単に買収できる自動車会社があった(例えば三菱自動車)事を考えれば、やはりポルシェ一族の由縁のある会社を、ポルシェの名前の下に統一したいという願望があったに違いない。この目論見は(最初は)うまく行った。「ポルシェがVWの買収に出た!」と知れ渡ると、VWの株は急上昇して1株が1000ユーロを超える。ポルシェはこれまで買い集めたVWの株を一時売却することで、さらに巨額の富を得た。(普通はこれは株価の操作に当たる。)しかし、買収に時間を賭け過ぎた。折からの大不況で車の販売台数が激減、会社の経営が苦しくなってきた。これに加えて、VW株買収のために銀行から100億ユーロもの金(一説によれば140億ユーロ)を借り入れていたが、この返済期限が2009年7月に迫ってきた。幾ら会社の資産が250億ユーロあっても、この多くは不動産や債権であり、「金が要るから売る。」というわけにはいかない。困り果てたポルシェは国が設けた「ドイツ企業救済基金」に融資を申し込むが、「株式売買で金に困った企業に貸す金はない。」と断わられて、「天は我を見放した。」状態に陥った。

このポルシェの窮地を見て、笑いが止まらなかったのがVWの取締役会長のピエヒ氏だ。ポルシェ一族のピエヒ氏には、自分の会社、欧州一大きな自動車会社が、比較にならない程小さな会社のポルシェに買収されるのに我慢がならない。これまはで自社の株が買収されていくのを、指をくわえて見ているしかなかったが、この不況のお陰で絶好の復讐のチャンスが訪れた。ピエヒ氏は借金で首が回らないポルシェに、VWの軍門に下って、VWの11番目の子会社になる事を提案するが、ポルシェ一族は大反対。一族郎党集まっての会合では、両者の統合という事で話がついた(筈だった)。ところがポルシェは紅海の小国ながら産油国で大金持ちのKatarから融資を受けて、VW買収の最後の試みをする。しかし、銀行への金の返済期限も迫っており、最後にはKatarからの正式な融資のオファーが届くのが早いか、それとも先に銀行の返済期限が来るかという、「時間の問題」になった。

ドイツ中が緊張してこのドラマの行く末を見守る中、まずはポルシェ側が先手を切った。「Katarから正式なオファーが来た。あとは判子を押すだけ。」と発表すると、(VWの本社のある)Niedersachen州知事が、「それは真っ赤な嘘」と公言、久しぶりの泥沼の争いに展開してきた。そうかと思うと、ドイツの経済新聞が「Wiedeking氏、辞任す。」と報道する。すると「負けてはならず。」と他の新聞が、「Wiedeking氏は多額の退職金を要求する為、Stuttgartの弁護士に退職金交渉を依頼する。」と報道。そうかと思えば、週刊誌は「Wiedeking氏の退職金は1億4000万ユーロ!!」と更に上を行った。これらの報道はすべてデマだったが、ニュース速報でドイツ中のテレビで報道され為、Wiedeking氏のイメージが悪くなった。(まさにピエヒ氏の思惑通り。)この四面楚歌の状況でWiedeking氏は(ピエヒ氏相手に)戦う意思を喪失して、辞任を表明した。

7月24日、大雨の中、ポルシェの従業員を前にWiedeking氏が辞表を提出した旨告げると、従業員の間から自然と拍手が起こり、これが延々と続いた。氏は言葉を続けれず、眼に涙を浮かべていたが、なんとか持ち直して最後まで踏ん張った。又、氏の後に続いて演説台の前に立ったポルシェの取締役会長のポルシェ氏も、声が震えて、途中で何度も話を中断して、感情と戦っていた。

こうしてポルシェはランボルギーニブガッテイなどに続いて、11番目のメーカーとしてVWの軍門に下ることになっが、この一件は、ピエヒ氏の戦術の巧みさを如実に示した。ポルシェが攻勢をかけてきた初期は防御に専念、敵の補給が切れて攻撃がストップした瞬間に攻勢に出る戦術は、1941年のロシア軍のスターリングラート包囲戦防衛を髣髴とさせる。さらには敵を混乱に陥れる為、偽情報を報道機関へ垂れ込む(デスインフォーメーション)など、まるでモサド顔負けの策略まで発揮している。

その他にも両会社の社長、ピエヒ氏とポルシェ氏の教育も勝負の帰趨に影響している。柔和で謀略と縁のないポルシェ氏はWaldorfschuleに通い、その後も競争にさらされる事なく、特別な努力も必要なく、会長の座に就いた。一方のピエヒ氏はそんな優遇された境遇になく、普通のギムナジウムに通い、ここで頑張っていい成績を上げないと、名前だけでは大学に通えないことを学んだ。その後ポルシェに勤務するが、身内の争いで、ポルシェから追い出されてしまう。氏はVWに再就職すると、出世の階段を実力で一歩一歩上がって取締役社長、そして会長に就任した。すべて実力(と策略)で勝ち得たポジションだった。この生い立ちが、今回の買収劇の帰趨を左右したように思える。

そうそう、すっかり書き忘れる所だったKatarからの投資。投資家も馬鹿ではなく、「この買収劇の勝者に投資した方がもっと儲かる。」と判断。勝敗が決定してから、ポルシェが保有していたVW株を買収することにした。この結果、一度の投資で両社に投資する事となり、まさに「漁夫の利」を得た形となった。

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der grosse Meister ピエヒ氏。


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der grosse und der kleine Porsche.
 


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