der Erste, aber auch der Letzte (25.05.2015)

1945年4月、ドイツ国内あるいは占領地にあった多くの強制収用所が、連合軍とかってのソビエト軍により解放された。お陰で毎年この時期なるとテレビはこのテーマ一色になり、ドイツが犯したかっての過ちを、嫌でも思い出される機会になっている。今年はちょうど70周年にあたるので、生存者が出席して、多分最後の盛大なセレモニーが開催された。そのセレモニーでは収容所を生き延びたユダヤ人が招かれて「祝辞」を述べたが、日本人が考える祝辞とはかなり異なる。

今回祝辞を述べたユダヤ人は、死の収容所を生き延びた後も、あんなにひどい目に遭わされたにもかかわらず、ドイツに残って生活を始めた。ドイツで生まれ育ったユダヤ人には、ドイツ人が何を言おうと、ドイツが故郷なのだ。しかし数年後、ドイツの町の路上でかっての看守に遭遇したという。彼を驚かせ、さらに憤慨させたのは看守の職業だった。ユダヤ人を残忍な方法で苦しめ、殺害したかっての看守が、何もなかったような顔をして警察官として勤務していた。これをみた彼は、"Deutschland aendert sich nicht."(ドイツは変わらない。)と悟り、イスラエルに移住したと心のうちを語った。日本の式典であれば、「二度のこのような災禍が起こらないことを誓います。」と言葉を濁す。痛いところをさわらず、オブラートに包むのが日本式だが、ドイツ式は強烈なまでに直接だ。

実際の所、かってのナチス党幹部やSS(親衛隊)には職業禁止令などが発令されたが、これは実名を連合国側が把握してる場合に限られた。罰せられることがわかってるのにわざわざ実名を名乗る者は少なく、多くの戦争犯罪者やナチの党幹部は、隠れ蓑をかぶってドイツ社会で堂々と生きていた。さらに連合国側が対ソ連対策でドイツの優秀な諜報部や警察を必要としたため、明らかな戦争犯罪で告訴されていない限り、そのまま同じ職業に就くことができた。中にはナチスの政権時、数多くの市民に死刑判決を下した裁判官も、戦後も裁判官の職を続けることができた。こうして権力の中枢に納まったかってのナチは、かっての戦友が戦争犯罪人として訴えられないように、あらゆる手段を講じた。外国から戦争犯罪人引渡しの要請があっても、「戦争犯罪への直接の加担が証明されていない。」として要請を拒否、戦争犯罪人が年金をもらって一生をまっとうできるようにした。

この傾向が変わってきたのはここ10年ほどだ。戦争犯罪を起したナチスの大半はすでに死亡してしまっているか、生きている場合も証人が死亡してしまっている。仮に証人が生きていても、60年近い年月が流れているので当時の出来事を再構成するのはかなり困難だ。結果、訴えられても証拠不十分で不起訴になるか、無罪判決が下るので心配する必要がなくなった。この安心から、これまでは不可能だった訴えが可能になった。そして訴えられた被告は口を揃えて、「何も知らなかった。」と証言、無罪を主張した。親族を失ったユダヤ人、あるいは絶滅収容所を生き延びたユダヤ人の腹立たしいことに、稀に有罪判決が下されることはあっても、被告のドイツ人は口を揃えて、「何も知らなかった。」と無罪を主張した。誰かがユダヤ人を殺害したかもしれないが、それは見ていないので知らないという、戦後、ドイツで流行った記憶喪失症患者ばかりだった。

2015年になるとあらたな戦争犯罪裁判が始まった。今回、ドイツの検察に起訴されたのは、かったの絶滅収容所のアウシュビッツに勤務していたかってのSSの元軍人だ。ドイツ軍がポーランドをほぼ1週間で席捲すると、これまで銀行員の見習いをしていた彼は当時のプロパガンタに洗脳されてしまい、「SSに入隊して、僕も英雄になりたい。」と考えた。見習いを終えてから1940年にSSに志願、SSの厳しい"Musterung"(適合試験)に合格して、SSの兵隊として訓練を受ける。前線で活躍をする事を夢見ていた本人だったが、上層部には別の考えがあった。銀行の見習いを終えたSSの兵隊は希少価値。そんな貴重な人材が、前線で大砲の餌食になってしまうのはもったいない。そこで収容所の会計隊に送られることになった。それもアウシュビッツの為替部門である。実際には家畜用の輸送列車で運ばれてくるユダヤ人から取り上げた金品を管理するのが任務だった。そこで彼は、ユダヤ人が絶え間なく「処理」されていく姿を目撃する事になる。

ソビエト領を快進撃するドイツ軍の後を、"Einsatztgruppe"(実行群)と呼ばれる警察軍が追随、東ヨーロッパでユダヤ人狩が始まった。そこは合理的なドイツ人の事、収容所で殺害するよりも、その場で殺害するほうが手間を節約できるので、好んで現地で処理が行われた。しかし数が多すぎた。処理しきれないユダヤ人は列車で収容所に送られたが、ひどい日にはユダヤ人を満載した列車が3つもやってきたという。そんな日には、最初に着いた列車のユダヤ人の処理を済ませてから、次の列車の処理に取り掛かるので、1~2日は休みがないほどの大忙しだった。ある日、幼子と一緒に列車に乗って運ばれてきた母親は、列車から下ろされる前に、自分がここで殺されると悟った。そこで自分の子を列車の中に残ったゴミの山の中に隠して、列車を下りた。ところが赤子が泣き出したので、当直将校にばれてしまった。怒った将校は赤子の足を握ると、赤子の頭を列車に叩き付けた。頭を砕かれて、即座に泣き声がやんだ。流石にこのような残酷な光景を目にすると、SSの軍人と言えど我慢できず仲間に相談すると、「自分に関係のない事に鼻を突っ込むな。」と言われたそうだ。

転属を申し出ると、「じゃ、スターリングラードに行くか。」と脅されて、転属希望を撤回するように圧力をかけられた。転属がかなったのは1944年の秋。ハンガリーが赤軍に席捲されそうになったので、解放される前に、ここにまだ残っている30万人のユダヤ人を駆り立てて、収容所へ移送して処理する事になった。この移送任務を任されたのが、収容所勤務経験のあるSSの軍人だった。そしてこの30万人のユダヤ人の移送の件で、あれから70年も経って起訴されることになった。

この裁判は、„Buchhalter von Auschwitz“(アウシュビッツの会計士)の裁判として、ドイツで大きな注目を浴びた。 しかし今回の裁判だけは、これまでに無数にあった戦争犯罪人の裁判とはひとつだけ、それも決定的な点が異なっていた。それは戦争犯罪で訴えられた93歳の元SS軍人は、「見なかった。」、「聞かなかった。」、「知らなかった。」と逃げず、アウシュビッツで行われた犯罪を見て、聞いて、知っていたと告白しただけでなく、自身は道徳上有罪であると、自分の罪を認めたことだった。戦後の数多くの戦争犯罪人の裁判があったが、被告が罪を認めたのはこれが最初で、おそらくはこれが最後に聞かれた罪の告白であろう。裁判を傍聴していた生き残りのユダヤ人は、70年も長く待つ必要があったが、ようやく正義を実感する事ができた。

皆まで言えば、ドイツでは殺人に時効はない。戦争犯罪人がまんまと逃げとおすことがないように、このような制度が導入されたといわれている。某国のように、「サンフランシスコ講和条約で解決されている。」と逃げることはできない仕組みだ。高齢の為、歩行補助機を使用して法廷を退席した93歳の被告に記者が、「毎回、法廷には出席しますか。」と聞いた。すると被告は待ち受けていた車に逃げることなく、"Bis zum bitteren Ende."(哀れな最後を迎えるまで。)と答えていた。これが国が鼓舞する宣伝にまんまと乗ってしまった人間の、哀れな最後の姿である。


「アウシュヴィッツの会計士」
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