報道の自由 (26.04.2016)

日本で当たり前なことは、日本以外の国では例をみない日本だけの現象である事が多い。例えば日本の郵便。日本のように頼りになる郵便システムは、世界に存在していない(韓国も優秀らしい。)が、日本人は日本のシステムしか知らないので、日本の郵便が世界中で当たり前だと思っている。ドイツで現金書留なんか導入すると、職員がお金を抜いてしまい、お金が届くことはないので、そんなシステムは存在していないし、「現金を郵便で送れないか。」とドイツ人は誰も聞かない。「ドイツには現金書留はありませんか。」と聞くのは日本人だけ。ドイツ人に、「日本では封筒にお金を入れて送っても盗まれない。」なんて言えば、目を丸くして驚くか、全く信用されない。それほどに日本の郵便は、他に例をみない優秀なシステムだ。

同じように日本の民主主義は、世界で例をみない日本だけの現象だ。日本のように一党独裁のような民主主義が先進国の一体、どの国に見られるだろう。これを可能にしているのは日本人独特の政治への無関心だ。国民の関心といえば、毎週放映されるテレビドラマ、芸能人の話題(醜態)、グルメ、お笑い番組に集約されており、政治に興味を見せるのは消費税が上昇するときだけ。国土が放射能で汚染されても、デモをするのはわずか数百人。この国民の政治への無関心は、何処から来るのだろう。

「日本の民主主義は闘争の末に獲得したものではなく、戦後、戦勝国から押し付けられたものだから。」という敗戦説をよく聞くが、同じように民主主義を押し付けられたドイツでは、民主主義がちゃんと根をおろして定着している。イタリアやスペインの民主主義も、日本に比べれば、はるかに発達している。日本人の政治への無頓着は、歴史に関係がありそうだ。日本人の考え方決定的に固まってしまった江戸時代、市民には政治に口出しする事が許されておらず、お上が決定したことをありがたく頂戴するだけ。飢餓が原因で農民が反乱を起こしたことはあっても、政治への参加を求めたことは一切なかった。ドイツではすでにドイツ第二帝国が誕生する前から、君主制ではなく民主主義を求めるデモが起こった。そして第一次大戦末期には、皇帝を国民の力でその地位から引きずりおろした。しかし日本では第二次大戦後、これまでの束縛から抜け出せず、相も変わらず天皇陛下万歳を唱えた。

この「日本独特」の慣習の原因は、日本のメデイアにある。ドイツを始め民主主義が根を下ろしている国では、メデイアは権力者の行動、言動を常に関しており、日々、熾烈な批判が載っている。具体例を挙げてみよう。ドイツでは電力会社が、原子力発電の解体の責任を国に押し付けないか、政治家が賄賂をもらって折れないか、逐一監視している。電力会社が会社を二分して、原子力発電を子会社に移籍してその責任を国に押し付けようとした際、メデイアは一斉にこれを非難した。これが通ると国民が原発の解体費用を追わされるので、国民は「嫌でも」電力会社の汚い方法について知らされて、デモが発生した。最後には国が法律を改正、電力会社が原子力発電を子会社に移管することを禁止した。このように民主主義が機能するには、自由なメディアが欠かせない。日本では国が東京電力を税金で救ったが、どこの報道機関がこの問題を報道しただろう。日本のメデイアは権力者を監視するのがその主たる任務なのに、これを大部分放棄して、くだらない番組で視聴率確保にやっきになっている。

日本では記者が「国益」に反する記事を書くと、右翼が威圧行動にでる。そして政治はこれをじっと見ているだけで、何もしない。警察も暗黙の了解をしており、何もしない。法治国家でありながら、国益に反する記事を書くと、社会の制裁を受けることになる。こうして自由な報道が妨げられ、政府は報道の内容を操作できる。それでも気に入らない報道がされると、堂々と新聞社に苦情を入れる。日本以外の国で、政治家が報道機関に報道の仕方で苦情を入れると、一大スキャンダルに発展する。報道の制限する試みは、自由な報道、ひいては民主主義を制限するものなので、そのような試みを行う政治家はボロボロに叩かれる。連日の報道で、「あの政治家は駄目だな。」と選挙民から愛想を尽かし議席を失うので、メデイアの報道に対して苦情を言うのは政治家の自殺行為に等しい。こして欧州では自由な報道が保たれている。

その欧州の報道機関にとって「目の上のたんこぶ」なのが、トルコの大統領だ。気に入らない報道をした記者、新聞社の発行人を「スパイ罪」で逮捕させ、口封じを図っているからだ。EU加盟を目指す国としては、あるまじき行為だ。ところがよりによってそのトルコと欧州は、難民問題で合意に達した。絶対主義を目指すエルドガン大統領に、難民が欧州に来ないように取り締まってもらうのだ。おかげでメルケル首相は、「難民受け入れの上限は設定しない。」と公言できる。汚い仕事をトルコに押し付けて、自分だけはクリーンなイメージを保つことができる。欧州の報道機関はこの取引を容赦なく批判している。とりわけエルドガン大統領に対する過激な風刺が耐えることがない。あるテレビ番組でエルドガン大統領を風刺した歌が流されると、ドイツ国内で大人気になり、エルドガン大統領の知るところとなった。この歌を聴いた大統領は激怒、ドイツの大使を大統領官邸に呼びつけた。

ところが欧州の政治家は団結して、「風刺された程度で大使を呼びつけるとは、あるまじき行為。」とエルドガン大統領を逆に非難した。ここで別の風刺家がエルドガン大統領を下劣に風刺する詩を、よりによって国営放送で放映した。ところがこれは風刺を超えて、侮辱に相当するものだった。ドイツ以外の国なら、それでも何も問題はなかったろう。米国なら表現の自由がとりわけ重要視されているので、テーマにさえならかっただろう。ところがドイツには、「外国の国家主席を侮辱してはならない。」というドイツ第二帝国時代からの遺物の法律が存在していた。この法律によれば、この風刺家は国家主席を侮辱したので、この行為は犯罪行為に相当する。もっとも検察が動き出すには、1.メルケル首相が検察に捜査を許可して、2.侮辱された本人からの告発が必要だ。「大人なら」そんな子供じみた告発はしないと思っていたが、エルドガン大統領は国家元首、そして個人として侮辱罪でこの風刺家を告発した

ドイツのメデイアは一致団結して、風刺家を擁護、「第二帝国時代の法律を施行するなんて間違っている。」とドイツの法律を非難した。ところが難民問題で急所を握られているメルケル首相は、「この詩は(国家元首を)傷つけるものである。」とトルコの首相に首相の見解を伝え、検察にこの件で捜査を許可した。これを政府の報道官から知らされたメデイアは、一斉にメルケル首相を批判した。「首相は難民問題解決のために、報道の自由を放棄した。」というものから、「メルケル首相はトルコの首相に謝った。」と言う内容まで、さまざまな書き方がされ、ドイツの報道の自由を守ろうとしなかったメルケル首相が非難された。メルケル首相はドイツの民主主義を支える報道の自由を、トルコの大統領の圧力に負けずに擁護すべきだったと各社は連日報道。最後にはメルケル首相が、「首相に伝えたコメントは誤りだった。」とミスを認めざる得なかった。また、メルケル首相は対策として、「該当する法律を今年中に廃止する。」と約束した。

このエルドガン大統領の風刺事件が、西欧の報道の自由を実に象徴している。西欧では政治家は風刺されるものであり、これに耐えなければならないとされている。風刺に腹を立てて法的措置に出るような政治家は、メデイアから集中砲火を受けて、「世界で一番権力を持つ女性」と言われてるメルケル首相でさえ、非難を受けてミスを公に認める羽目になる。日本にもこのような報道の自由があれば、民主主義も発達するのだが、日本では政治家を直接に非難するのは正しくないという風潮があり、肝心な部分は報道されないまま闇に葬られている。日本人がドイツに来て、ドイツで報道される日本、日本の政治家への強烈な非難を見れば、最初は立腹するかもしれないが、次第に自由な報道の大切さが見えてくる。外国に留学して、日本を外から見ることは人間を成長させる。逆に日本だけに住んでいると、現金書留のようなシステムが世界中にあると信じて、死ぬまでこの誤謬から開放されない。是非、若いうちに外国に出て、異なった価値感に触れて視野を広げて欲しい。


エルドガン大統領風刺
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