Willy Brandt (1969-1974)

ドイツの金正日みたいな存在がこのWilly Brandtだ。第二次大戦中は共産党の一員でドイツでは身の危険を感じ、ノルウエ-に亡命。ところが、ノルウエ-がドイツに占領されてしまったから、たまったものではない。幸い、Brandtはノルウエ-兵士として捕虜になり、あとでノルウエ-捕虜がヒトラーの勅命で全員解放された際に、解放される。その後の行動が不明なのだが、ソ連に亡命していたとみるべきだろう。
戦後、西ドイツに帰還したBrandtはSPDに入党して、その政治活動を開始する。その後、ベルリン市長、外務大臣と着々と政治の階段をのぼって首相になる。 Brandtの政策の特色は、東への宥和政策。これまで東(共産圏)との関係を拒んできた歴代首相と異なり積極的に東と交流を開始する。
Brandtをドイツの政治家としてその名前を永遠にしたのはポーランド訪問の際に、戦没者慰霊碑の前で膝をついて、哀悼の意を表した事にあげられる。当時のドイツでは、まだまだ「ポーランド占領、破壊は俺たちが悪いんじゃない。あれはナチスが悪いんだ。」という責任逃れの意見が支配的だったから、三流国家のポーランドに一流国家のドイツの首相が膝をついて謝った!というので、国民の間に憤慨を起こした程だった。
その後、Brandtは首相秘書官が東ドイツのスパイだった事がばれ(首相本人もスパイだったという話もある。)、首相辞任に追い 込まれる。その後、何年か経って、Brandtも死んで「やっぱBarndtは偉大な政治家だった。」という事になり、あちこちに銅像が立って、Barndt広場、Brandt通りがドイツ中にできるようになる。
余談だがこのパターン、誰かが死んで初めて尊敬される。というのはドイツでは非常に多い。(現代の)ドイツ人の誇りユダヤ人詩人のHeinlich HeineはDUS市出身の詩人だが生きている時は、売国奴としてドイツ追放になり流浪地のパリで客氏する。当の本人が死んでしまってから、「やっぱりHeineは偉大な詩人だった。」という事になり、DUS市では街の真ん中に銅像を立て、Heinlich Heine通りをつくり、それでもまだ足りず、最後にはHenlich Heine美術館までこしらえた。
こうした傾向、生きているときは売国奴扱い、 当の本人が死んでしまってから急に「偉人」として暖かく迎えられる(?)のは、ドイツ史に偉人として名を残す人、Einstein、Thomas MannやHermann Hesseの宿命であるようだ。

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