Helmut Schmidt (1974-1982)

Brandtの辞任を受けて首相になったのがこのSchmidtだ。氏は、「国の車輪は泥沼にはまり、身動きできない状態で政権を渡された。」と当時の感想を語っている。一見おだやかな外見とは異なり、その意思の強さと決断力では近年稀に見る秀でた政治家だった。氏が首相に就任した当事、オイルショックでドイツ経済はどん底にあった。これを切り抜けるためには、隣国のフランスと歩調を合わせることが不可欠と判断、フランスとの友好な関係を最優先した。
一難去って、また一難。70年代になると学生運動が活性化した。この学生運動はドイツ赤軍を生み、政治家、経済界の有名人を誘拐、殺害していた。氏は(最初の誘拐事件での失敗から教訓を学び)「テロリストとは取引をしない。」という原則で対処する。もし首相自身、あるいは奥さんがテロリストに誘拐された場合は、テロリストとの交渉を一切禁止した。結果として某銀行の頭取誘拐事件では、赤軍の要求を拒否、人質は殺害されてしまう。日本の政治家が同時期に日本赤軍に対して取った措置といい対象をなしている。その後、ドイツ赤軍によるルフトハンザ機乗っ取り事件では、躊躇せず、GSG9(ドイツ警察のテロ対処の特別部隊。イギリス軍のSASと同様の組織。)に出動を命令。特殊部隊を乗せた飛行機は、犯人の乗った飛行機をソマリアまで追いかけて、ここで飛行機を強襲、無事、人質を解放しGSG9の名前を世界中に馳せることになる。(GSG9の強襲以前に、パイロットは見せしめとして殺害されていた。)
Schmidtは閣議においても、議論には耳を傾けるが周囲の意見、周囲の意見に影響されず、自身の意思で決断を下していった。さらに一旦、決断決定された政策を官僚に任せて終わりにぜず、これが速やかに実行されるように最後まで官僚をコントロール(監督)した。この辺、いかにも軍隊(将校)経験を持つ者らしい行動である。又、討論などで非難をされても、怒り出すことはなく、常に冷静沈着、非難をする相手を時々見据えるようにしてメモを取っていった。反論の機会が与えられると、そのメモを基に相手の論拠をひとつ残らず粉砕していった。しかしよりによってこのSchmidtのリーダーとしての資質が、首相として命取りになることになる。
ちょうどこの頃、ソ連邦が東ヨーロッパに複数核弾頭を持つ戦術核ミサイルSS20を配備。アメリカはこのミサイルが米国には達しないので、驚異と認識しなかった。しかしこの核ミサイルの主要な目標はドイツの主要都市。Schmidt氏は、この驚異を手を銜えてみているわけにはいかなった。しかしソビエトは、「配備を止めてください。」と言えば、「じゃ、止めます。」というものではない。そこでソビエトが配備を止めなければ、ソビエトの都市を目標にしたアメリカ製の戦術核ミサイルをドイツ国内配備することにした。これが有名な、"Doppelbeschluss"だ。Schmidtのこの決断は、第二次大戦の悲惨な敗戦を味わったドイツ国民には理解されず、国民からの支持を次第に失うことになる。1982年の総選挙でSPDは敗退を喫し、連立政権を余儀なくされるが、これまでの政権パートナーだったFDPがイタリアのようにあっけなく敵側(CDU/CSU)寝返ってしまう。
これによりSchmidt/SPDは国会での過半数を失い、政権を明け渡す事になる。皮肉な事にSchmidtの敗退の理由になった戦術核の配備は、これを批判して政権についたコールが戦術核の配備を推進して行くことになる。

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